きままに建築学校

月別アーカイブ:2011.08

  • まだ日本という国が成立していない時代の事です。
    倭の五王はこぞって中国との交わりを重視して様々な異国の文化を手に入れようとしました。
    その後、大和に国のかたちが出来始めたその時代で、朝鮮半島での百済の勢力が、唐と新羅の連合軍との交戦にどうしても大和の国の力を必要とされたのです。
    その助け舟を出したのが、当時即位していた斉明天皇の時だったのです。
    息子たちを連れ、九州から出兵させるのですが残念ながら敗戦を余儀なくされました。
    この頃から私たちの国が日本という名前になったようです。
    日本はこの様な時代背景を経て様々な文化を入手しました。
    海外の交流からこの国は“日本という国”として、外国から認めてもらうような方向づけをしていく様になっていきました。
    その125年前に百済の聖明王が使者をこの国に使わせ、大和川を上り今の奈良県桜井市から上陸し、経典や阿弥陀如来をもたらせました。

    日本は縄文文化の前から山中や海岸に住み狩猟や漁労で生活しており、その後大陸の人々の移入により弥生の文化を受け入れる歴史をもたらし、その過程の中で生死や畏怖などを感じながら何らかの信仰心みたいなものを抱いていたようです。
    つまり土着した独特な宗教的世界観が出来ていたのです。
    鬼道と呼ばれる冥界に通じる祈祷があったり、自然を神に見立てたりしてきました。
    現在の山岳宗教の先祖のような信仰なのでしょうか。
    時代が進むにつれ、そこから神という信仰の対象が生まれていく事になっていきます。
    そこに仏教が入ってきたのです。
    6世紀は欽明天皇の時代(その前に密伝が入っていたようですが)でした。
    この時代では韓国からもたらされた仏像の扱いにかなり苦労があったようですが、この信仰の対象をどの位置におくか、大変悩んだようです。神を中心に考え、この仏像は蕃神として扱われました。
    つまり外国から来た神様なんだと。
    蘇我稲目は推進派でしたのでこれを向原の家を清めて寺としました。
    これが日本で初めての寺院建築ではないかといわれています。
    現在、向原寺として存在していますが、さてそのときの様式はどうだったのでしょうか。
    多分、掘立て形式の柱で構成された木造建築で屋根は扠首組(さすぐみ)の構造ではないかと思います。
    その当時は朝鮮半島からも多くの渡来人が日本で活躍し、彼らがもたらした技術を元に考えれば格付けをきちんと考えていただろうことは明白で、例え蘇我氏の様な政府の高官であったにせよ肘木をつけた宮殿建築はありえないと想像するのです。住宅建築を改造した程度の信仰空間ではないでしょうか。
    資料がなくわかりませんが。
    そのあたりから徐々に仏様が日本に認知し始めるのですが、さあここからがややこしいのです。
    語りたくない程にややこしくなっていきますが、しかたがないですね、元々あった信仰に仏教が介入してきたのですから。
    (風がおりてきたー仏教という信仰がもたらしたもの)

     次回更新予定2011年9月26日予定

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     戦後、此の国の街は変化してしまいました。 且つてあった街の風景は消え、代わりに西洋のかたちが何気なく入ってきたのです。 よく見るとそれはアメリカ開拓時代の様式だったりイギリスの民家様式だったり、またその様式をモダンにしたかたちだったりしています。 この国は中国や韓国、オランダ、イギリスなど且つて様々な文化を取り入れ、自国の文化に受け入れてきました。たとえば中国唐の時代の仏教文化とともにその必要な空間として大仏殿の様な巨大木造建築を造りました。 それは仏教による華厳の教えによる空間でした。 奈良時代には平城京という都市を唐の長安に学び、殆ど同じといってよい程よく似せた都市を建設していったのです。 また幕末には、イギリスやオランダポルトガルとの交易により、数多くの外国の様式を木造等で建築してきました。これはその時代に即した文化の交流に伴ったもので、そのかたちは日本として否応無しに受け入れたものではないのです。 戦後のこの国を振り返るとどうでしょう。デザインや技術の進歩と共に建設のあり方は変わりました。 都市においては超高層ビルが林立し、部分を見ただけでは世界のどこか見当がつかない有様です。 地方において住宅が建つ町並みは、且つての町並みや甍のなみは消え、高さやデザイン、色までバラバラな外壁や屋根の構成で多種多様なかたちが並ぶ様になってしまったのです。 国民のだれもが望んではこなかったと考えたいのですがどうでしょう。 これもまた否応無しに変化していったのでしょうか。 戦後から経済成長を余儀なくされたこの国は、一生懸命であったことは誰もがうなずける事実です。 その代償としてこのかたちを生んだのか、また先に述べた民度が乏しかったのかはわかりません。 何気なくこの様に皆でやってしまったとしたら、その慣れに誰もが気がつかない内にこのようになっていったと解釈できてしまうのです。 “ゆでカエル”という例えがあります。 冷たい水に浸かっていてもゆっくり温めればそのうちお湯になっていても気がつかず、そのうち茹でられ死んでしまうという例えです。 エントロピー理論を唱えたのはドイツの物理学者クラウジウスという人です。彼は自分の研究の過程でこの概念を発見しました。熱力学の第二法則に基づいています。 コップに冷たい水を入れるというたとえでは、外の空気とコップの温度は暫くすると同じになります。 そこに水を注ぎます。コップの中は初めは水により冷やされますが、そのうち限りなくコップや外気と同じになります。 当たり前のようですが、そのコップの水はそれより冷えることは、外気温度が変化しない限り変わる事はないのです。 何気なく浮かれたり悲しんだりして時を経ているうちに、社会の温度変化に気づくことなくいつの間にか“かわったかたち”が入ってきても許してしまう日本になってはいないか。 よろしくないかたちの平均化がこの国の町並みを形成している事を、この社会が気にしないで新しい町並みとして受け入れてしまいそうな気がしてならないのです。 これを私は“ゆでがえる現象”“エントロピー現象”とかってに述べています。 頑張れゆでがえるJapan。 このままではこの国が日本かどうか解らなくなりそうだよ。 (風がおりてきたーゆでがえるJapan) 次回更新予定2011年8月22日予定

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